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2014年7月 2日

第16回新潟哲学思想セミナーが開催されました 【NiiPhiS】

NiiPhiS16

[文責=新潟大学大学院現代社会文化研究科 博士課程 高畑 菜子]

第16回新潟哲学思想セミナーは、講師に古田徹也先生をお迎えして、「行為と行為でないものの境界」というテーマで開かれました。ご講演は、行為という概念の奥行きを広げるだけ広げたうえで、そこで捉えきれないものをどう考えるか、というものでした。

古田先生によれば、行為論は、「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を引いたら、後には何が残るのか」といウィトゲンシュタインの問いが起点となっています。たしかに行為を意図や意志の有無で特徴づけるという考え方が支配的ではありますが、しかし意図的行為はあくまでも行為の一側面にすぎません。実際には「意図せざる行為」が世の中にあふれているわけですから、ここであらたに、「(図らずも)やってしまったという事実から、起こってしまったという事実を引いたら、後には何が残るのか」という問題が生じてきます。ご講演はおもにこの問題の解答を探る試みでした。

ご講演のなかでまず古田先生は、意図せざる行為の代表例として「過失」を取りあげられました。過失事故においては、意図的行為に近い「悪質な過失」と、意図性を帯びる要素がなく、不注意で回避行動をしなかった「純然たる過失」とがあります。しかし先生によれば、「純粋な過失」の場合ですら、事故を回避する/しないをコントロールできたと捉える考え方が強い影響力をもっており、そこには過失を意図的行為として捉えるという歪みがあるのです。

Furuta

意図せざる行為を意図的行為の延長として捉えると問題を解決することができないため、さらに先生は、過失ではないがやはり「事故を起こした」と言えるような行為を取りあげられました。このような行為においては、当人にはその出来事を回避する選択肢も回避する能力もなかったにもかかわらず、責任を感じて責任を取ろうとするという「行為者の悲劇」があると先生は指摘されます。

古田先生によれば、悲劇に対する向き合いかたは、皆が模範とすべき画一的な道徳に収まるものではありません。だからこそ行為者の悲劇とは、「こうした事柄について私はどのように考えたいと思っているか」という問いを私たちに迫るのです。そこでは、自分はどういう人間でありたいか、社会のなかで私はいかに生きるべきかという個別的な問題が先鋭化してくるのです。

ここで、当初の問いへの解答として、それでも残るのはやってしまった行為者である、と先生は結論づけられました。これはあらゆる行為に前提となる事実ではありますが、意図せざる行為においては一定の重要性を帯びてくるものです。焦点の出来事に対してだれかが他のどの人間とも異なっている視点に立つという、行為者の置き換えのきかなさが、意図せざる行為においては中心的な問題になってくるのです。そして、この点から古田先生は、「行為」という概念は、他の概念に還元することができない原初的な概念のひとつなのではないかと指摘されました。

ご講演の最後に、行為という概念の奥行きを広げたことで明確になった部分もあったけれども、行為や行為者といった側面では捉えきれないものも見えてきたと先生は述べられました。それによって、行為とそうでないものの境界が曖昧に現われてくるのですが、しかしそこにもなお責任に類することが立ち現れてくるのではないかと示唆されて、ご講演を終えられました。

今回のセミナーでは、行為論の入門のみならず、過失や、過失ですらない行為において、行為者が揺れているところに注目したいという古田先生のお考えをとおして、意図せざる行為から行為全般について考える有益な機会となりました。

最後になりましたが、今回のセミナーでご講演下さいました古田先生に感謝申し上げ、今回のセミナー報告といたします。